平成で変化した父親の存在感は、母親の絶対的に正しい子供への評価から変化した。昭和では父親は尊敬の念を抱かれる象徴だった。今や母子の癒着や子供の母親の支配により象徴性は崩れてしまい家庭内では空気のような存在になってしまった。所詮、男子は単細胞で頭が悪いので女性の前では無力です。
— こまこま@技術士 (@komakoma41) 2019年3月29日
10カ月の不安と緊張の妊娠期間から母性として子供を守るべき能力が芽生えてくる。夫には父親になるという覚悟だけが求められる構図とは圧倒的に違う。母親の絶対的に正しい子供への評価能力は父親のそれとは比較にならない。父親の上滑りした子供への評価は鼻くそみたいなもの。
— こまこま@技術士 (@komakoma41) 2019年3月29日
父親の権威喪失は昭和から平成にかけて徐々に進行していた。昭和における父親はたいして喋らなくても家父長としての存在感が与えられていた。いわば家庭内の天皇のような存在があり最終的な決定権は父親に与えられていた。平成においては「亭主元気で留守がいい」といわれ最終的な決定権は母親に移った
— こまこま@技術士 (@komakoma41) 2019年3月29日
父親が社会の中で備えた能力は家庭内ではことごとく無意味である。
ワードやエクセルができること、メールがPDFで送れること、パワポで作成したものでプレゼンができること、全て家庭内の存在感を維持できる武器にはならない。
母親の絶対的な支配力が、日本社会に蔓延するある種の閉塞感も生み出しているのかもしれない。父親は、男子ならではの単純でバカ、未成熟さから家庭内では空気のような存在感しかない。
これから将来的には、生物学的な女子の安定感からますます母親の存在感が増す、父親はプレゼンスを喪失するトレンドは加速するに違いない。
※引用 内田樹さんの「街場の共同体論」