こまこまぶろぐ

妻一人、息子二人と暮らす父親の奮闘記

#138 無形資産としての家族のことを考えてみた

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昨日は久しぶりにアフターファイブにテニスをして腰が痛いです。

どうもこまこまです。

 

みなさんは家族と過ごす時間は幸せですか?

私は妻と二人の息子がいますが家族との時間が一番幸せを感じます。

家族は「無形資産」とも言われてます。資本主義経済の中で一般的に言われている資産は株、現金、不動産など有形資産。一方で家族、信用、資格などは無形資産。

 

たしかに家族はランニングコストがかかるのでキャッシュフローではマイナス。お金という尺度で推し量ろうとすると赤字かもしれません。それでも自分の人生には心からの豊かさや潤い、喜びを与えてくれる大切なものです。

 

日本は昔に比べて周りにモノがあふれていて物質的な満足度て悩むことが少なくなってきてます。とくに東日本大震災以降は絆や家族といった価値観が見直されてきてます。

 

そもそも家族という概念は何か?

ということを深堀りしてみたいと思います。

 

狩猟採集社会でヒトは生物学的な本能のままただ生きるため食べるものが必要でその日を生き抜くだけで大変な日々だった。男は食べ物の肉を求めて狩りをして、女は木の実の採集。男は狩りを効率化するために頭の中に地図を描くことが必要不可欠だったが、女はその必要がなかった。現代で女が地図を読めないのは遺伝子的に想像できます。

 

この頃に結婚や家庭という概念はなかったものの家族という概念がどうだったのだろうか。おそらく小さい子供には自分で生活していく能力が不足して現代社会と同様に大人が支援していたと思われます。この時に自分の子供という認識、識別ができていたかどうか?私は少なくても男は不可能だったと考えています。

 

異性の恋愛感情に基づく関係は当人同士で分かるが、親子関係が客観的にどこまで識別できていただろうか。私はおそらく女性は自分の子供と識別して生み育てるが、男は分からなかったと思います。現代でもDNA鑑定して親子関係の科学的な根拠を求めるくらいで、外形的に識別する風習、文化はなかったと思います。

 

要するに男は誰の子供なのかは関係なく「子供」として、もしくは自分と行動を共にする「子供」と認識していただろう。なので男は狩猟採集社会では自分の子供かどうかは関係がなかったはずです。

 

遺伝子学的に考察すると一夫多妻制度はそれなりに合理的な制度ではないかと思ってしまいます。なので日本の現代社会で身体の一部として子供が約10か月の育成過程を経る女と男が、子育て論で対立することが多いのは至極当然のことなんです。

 

私には今春から高校生になった長男がいますが、スマホばかりいじってほとんど勉強しません。妻は「勉強しなさい」と毎日のように怒声をあげていますが、私自身は勉強を強制することは言わないようにしています。別に子供に興味がないわけではありません。

 

私は自分の子供の授業参観や三者面談には仕事より優先事項と考えて積極的に参加します。私も妻もほとんどの学校授業に参加するし部活動の試合に「参戦」します。子供が学校や部活動でどうしてるか関心があるし、成長していく様子をしっかりと観察していきたいと思ってます。

 

自分では何もできなかった長男が中学、高校と成長して自分の判断や行動の選択は自分でできる年齢になってきています。勉強するかしないかは自分自身で決めることです。自分自身が勉強したいと思っても行動がともなわず勉強できないこともあるかもしれません。それで長男が年齢を重ねてのちのち後悔するかもしれません。それも含めて長い人生において自分の責任で判断してほしいと思っています。

 

時間はあと戻りできないことぐらい理解できてる年齢です。今までのブログで何度も書いてますが、自分以外の他人の行動はコントロールできません。コントロールできるのは自分の行動だけです。他人のせいにしていては成長はありません。人生を切り開くのは全ての結果は自分の責任と考える「自責マインド」です。

 

以上こまこまでした。